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東京高等裁判所 昭和30年(ネ)873号 判決 1956年9月17日

控訴人(附帯被控訴人) 国

被控訴人(附帯控訴人) 宇田川婦美

主文

本件控訴並びに附帯控訴はいずれもこれを棄却する。

原判決主文第一、二項を左のとおり変更する。

控訴人は被控訴人に対し金四十二万二千二百五十八円六十六銭及びこれに対する昭和二十三年十二月九月以降右完済まで年五分の率による金員を支払うべし。

被控訴人その余の第一次の請求を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とし、附帯控訴費用は附帯控訴人の負担とする。

事実

控訴人(附帯被控訴人以下同じ)指定代理人は「原判決中控訴人敗訴の部分を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とする。」との判決並びに附帯控訴につき附帯控訴棄却の判決及び当審で拡張せられた請求についても請求棄却の判決を求め、被控訴人(附帯控訴人以下同じ)訴訟代理人は控訴棄却の判決並びに当審における請求の拡張及び附帯控訴の趣旨として「原判決中被控訴人敗訴の部分を取消す。控訴人は被控訴人に対し、金六十七万五千六百円及びこれに対する昭和二十三年二月二十七日以降右完済まで年五分の率による金員並びに金四十二万二千二百五十八円六十六銭に対する昭和二十三年二月二十七日以降右完済まで年五分の率による金員を支払うべし。訴訟費用は第一、二審共控訴人の負担とする。」との判決、若し第一次の請求が認容せられないときは「原判決中被控訴人敗訴の部分を取消す。控訴人は被控訴人に対し金三十三万四千三百九十一円三十四銭及びこれに対する昭和二十三年十二月九日以降右完済まで年五分の率による金員並びに金四十二万二千二百五十八円六十六銭に対する昭和二十三年十二月九日以降完済まで年五分の率による金員を支払うべし」との判決並びに仮執行の宣言を求めた。

当事者双方代理人の事実上の陳述並びに法律上の主張は、

被控訴人訴訟代理人において「(一)(A)原審において被控訴人は第一次の請求として控訴人に対し本件不法行為により蒙つた損害として(イ)治療のため支出した費用金四万千二百二十四円(ロ)得べかりし利益の喪失金十九万六千六百三十四円六十六銭(ハ)慰藉料金八十六万円、以上合計金百九万七千八百五十八円六十六銭の賠償を求めたところ、原判決が、右請求中(イ)のうち一万五千六百円及び(ハ)のうち金六十六万円の部分については、失当として被控訴人の請求を棄却したのは不当であるから、この部分について附帯控訴をした上、控訴人に対し右棄却せられた請求合計額金六十七万五千六百円の支払を求めると共に、当審においては請求を一部拡張して、右金額に対する不法行為の日である昭和二十三年二月二十七日以降右完済まで年五分の率による遅延損害金並びに原判決で認容せられた金四十二万二千二百五十八円六十六銭に対する同一期間同一割合による遅延損害金の支払を求める、(B)また右第一次の請求が理由なしとせられたときは、第二次の請求として前に掲げた趣旨の判決(ただし損害金の起算日は訴状送達の翌日である昭和二十三年十二月九日)を求める。(二)一般に医師が輸血をなすに際しては、その時以前に行われた給血者の血清反応検査の結果如何に拘らず、その輸血直前自ら給血者について血清反応検査を行い、梅毒反応の陰陽を確めることは勿論、給血者に対する視診、触診、聴診、問診等を行い、それらの所見を綜合して給血者が梅毒に感染していないことを十分確めた上で、患者に輸血しなければならない注意義務を負うと解すべきである。――殊に本件において給血者田中実の血清検査証明書(乙第一号証)の日附は昭和二十三年二月十二日附であり、輸血の日が同年二月二十七日であるから、その間に何等かの疾病に罹患することも十分予想され、なお輸血を緊急に行う必要がない場合であつたのであるから、当然輸血直前に血清反応検査並びに視診、聴診、触診、問診等を行わねばならなかつたのである。(イ)血液検査の点につき――当審鑑定人加藤勝治の鑑定の結果によれば、血清反応検査において陽性の反応を呈するのは、病源菌が体内に侵入してから、個人差はあるが、一般には二ないし四週間の時日を要するとされているから、仮りに原判決認定の如く給血者田中実が梅毒に感染したのが昭和二十三年二月十四、五日頃の機会においてであるとしても、その後十二、三日を経過した同月二十七日にもし堀内医師が血清反応検査を行つていたならば、田中の梅毒に感染している事実を知ることができた可能性は相当あつたものと謂うべく、結局堀内医師が血液検査を行わなかつた注意義務の懈怠に因り本件事故が発生したものとみるべきである。(ロ)視診、触診、聴診によつて判断することのできる梅毒の外的症状の発現するのは、必ずしも原判決の説示する如く感染後約三週間位と限定するわけには行かず、稀には特殊の例もあるのであるから、前記の如く感染後約二週間位経過した同年二月二十七日当時でも慎重な視診、触診、聴診をしたならば、かかる外的症状を発見し得たかも知れず、堀内医師はこの点においても過失があつたものということができる。(ハ)問診につき控訴人は、本件のような条件の下においてはこれを省略することが許されるものであると謂い、また問診の方法についても『身体は丈夫か』位の質問を以て十分であると主張するが、その然らざることは前陳のとおりである。控訴人は職業的給血者に対する問診の価値を極めて低く評価しているが、医師が直接職業給血者に対し具体的に質問し、その応答を一々病歴に記入する場合には、職業的給血者と雖も、常に虚偽を述べると断ずることはできず、むしろ事実を率直に述べることが、相当期待される。また『身体は丈夫か』というだけの質問に対しては、慢然とただ『はい』という程度で済まされるが、詳細且つ具体的な質問をすれば、それに対して一々答える必要があり、質問に対する反応を見る機会も多く、病歴を詳細に記入すれば、その心理的影響によつて職業的給血者と雖も、真実を述べる場合が相当予想せられるのであつて、問診に対して慢性的になつている職業的給血者に対しては、却つて一般普通人よりも詳細具体的質問をする必要がある。」と述べ

控訴人指定代理人において「(一)輸血に際し行われる問診については、後記の如き諸条件の下においては、これを省略することが許されるものであつて、かかる場合問診を省略しても、直ちにこれを以て当該医師の過失と断ずることはできない筋合である。即ち(1) 本件において職業的給血者である田中実は、輸血時から僅か十五日前の血液検査証を持参し、更に同人の写真を貼付した給血斡旋所(東京医療普及会)の会員証を持参しているものである。右の血液検査証は財団法人日本性病予防協会附属血液検査所の発行にかかり、ワツセルマン氏反応、村田氏反応いずれも陰性であることを証するもので、最も信頼するに足るものであるに加え、給血斡旋所の発行する会員証は、健康診断及び血液検査を終了し、これに合格した者に与えられるのであるから、田中はこれらにより既に給血者とするに適するものであることが、明らかにされているということができる。そして血液検査証にワ氏反応、村田氏反応ともに陰性とされた者が検査証発行の日から十五日後に輸血のため医師の前に現われるとき、梅毒罹患者である確率は〇・三パーセント以下であるから、(梅毒血清反応が陽性になるのは感染後平均六週間後で、この六週間を血清陰性期と云い、感染後第十三-十四週後にして第二期の症状を呈し百パーセント陽性となる。しかし第二期の初期にはかような高率に陽性にでるものでなく、たとえば、日時と共に直線的に増加するとしても一週間毎に一〇パーセントを増すと考えれば最高であり、実際にはその初期はおそらく五パーセント以下であると想像せられるから、本件の場合血清反応の陰性として現われた二月十二日から二週間を経過した輸血日である同月二十七日における陽性率は、その二倍即ち一〇パーセントとなる。そしてわが国の青年層における梅毒罹患率は三-四パーセントに過ぎないのであるが、給血者はたびたび血液検査を受けているから、給血者が梅毒罹患者として医師の前にあらわれた確率は、これ以下であることは明らかであり、今仮りに三パーセントと見ると、二週間前に血清反応が陰性であつた給血者が、二週間後に血清反応陽性の者として医師の前にあらわれる可能性は、三パーセントの一〇パーセントで、結局〇・三パーセント以下であると想像せられる)血液検査証のみを信頼して、その者から採血する場合の安全率は、九九・七パーセント以上なのである。このように高度の安全率を持つ場合なのであるから、血液検査証と、更に給血斡旋所の発行する会員証の前提をなす健康診断に信頼して、問診等を省略することが許されるものと謂うべく、問診を省略したからといつて医師の過失を以て論ずるのは不当である。(2) 本件の場合、問診によつて梅毒罹患の可能性を発見することは所期し得べくもなく問診の持つ意義は無価値に等しく、従つて問診の有無によつて当該医師の過失に帰せしめるのは当らない。――即ち職業的給血者に対する梅毒罹患の可能性の有無を判断するための問診は通常医師の診療を求めに来る一般患者に対するそれとは、被問診者の立場上著しくその効果を異にするは見易い道理であつて前者の場合たとえ過去の病歴その他、梅毒罹染の機会を持つたか否か等についての問診がなされたとしても、被問診者としてはそれがため給血を断わられ報酬を得ないで帰る不利を招くような告白を回避するであろうし、況んやその告白は羞恥を伴う事項である以上、罹患の意識のない者から、その真実の答を得ることは通常期待し得ないからである。(3) この点につき更に具体的に検討するに、職業的給血者田中実が給血斡旋所から派遣せられて給血のために来るということ自体、すでに梅毒罹患を否定するジエスチユアーであるとみられるのみならず、血液検査証により陰性の証明がある以上、陰性を理由に梅毒罹患のおそれある事実を語らせることは至難である。乙第十二号証(田中実の検事に対する第一回供述調書)によれば、給血者田中実は検事の取調べに対し『女を買つた事実を告げなければならないと思いますが、聞かれないことを幸に左様なことを告げずに給血した』旨供述しているけれども、この供述からは、『聞かれたら言つたであろう』という類推だけが導き出されるものでなく『聞かれても言わなかつたであろう』ということも当然考えられなければならない。殊に右田中の供述は聞かれなかつたことを幸とする遁辞に過ぎないと見られるし、また上述した田中の立場と問診事項の性質上、たとえ聞かれたとしても真実の応答を得ることは到底期待できないと見るのが却つてこの場合の常識であろう。原判決が堀内医師の給血者に対する問診が不十分である点を指摘し、若し相当の問診をしていたならば、少くとも田中に梅毒感染の危険があつたことを発見するに困難であつたとは思われないと判定されているのは、本件の場合の問診の価値を過大視し、且つ著しく条理に反する推論の下に過失を認定した違法があると謂わねばならない。(二)仮りに本件の場合給血者に対する問診は医師として当然なすべき措置であるとしても、職業的給血者に対する問診としては『身体は丈夫か』と質問しただけでも十分であつたとみなければならない。――問診については、これを行う場合の表現方法に特定の形式はないのであつて、相手により、担当医師の人柄にもよつて表現法が異るのは当然であるから、輸血につき一応の知識を持つと見られる職業的給血者に対しては『身体は丈夫か』と尋ねれば、梅毒罹患を含めて質問されていると理解するのが常識であり、堀内医師の右の質問だけでも問診として適切十分であると謂うべく、医師としての注意義務懈怠の責任はない。(三)本件の場合二十七日(昭和二十三年二月)の輸血は直ちにこれを実施しなければ、生命の危険を招来するという程緊急の必要があつた訳ではないにしても、体力を補強し余病の併発を防ぎ、殊に被輸血者である被控訴人の病患子宮筋腫は、貧血に傾くものとされているのであるから、或る程度の要急性を持つていたものであり、このような場合に実施される輸血において、血液検査証を持参し健康診断を済ませている職業的給血者に対して、更に精密な検血、視診、問診を要求することは、輸血を実際上不能ならしめる結果を引起すことになる。これを問診のみについてみても、輸血により罹患の危険のある疾病は梅毒のみに限らないから、そのすべての危険を防ぐためには、質問は相当の範囲に拡げられて、且つ精密になされることを要求されることになるから、結局輸血の実施の断念をもたらさないとは謂いえず、これを要するに元来輸血という治療方法も、常に或る程度の危険の下に実施されるものであることが、医療の本質に内在することを考えあわせれば、前述の如く九九・七パーセント以上の安全率を持つ輸血の実施を、医師の過失として論ずることは不当である。」と述べ、

た外は、原判決事実摘示と同一であるから、これをここに引用する。

証拠<省略>

理由

第一、

当裁判所は、当審でなされた新たな証拠調の結果を斟酌するも、左記の点を附加する外は、原判決の理由全部をここに引用し、これと同一理由によつて被控訴人の第一次の請求(ただし被控訴人が当審で請求を拡張した(イ)金六十七万五千六百円に対する昭和二十三年二月二十七日以降右完済まで年五分の率による金員及び(ロ)金四十二万二千二百五十八円六十六銭に対する昭和二十三年二月二十七日以降完済まで年五分の率による金員の支払を求める部分を除く。これについては原審で主張もなく、原判決も判断していないのであるから、第二において別に判断する)は、原判決主文第一項の限度において正当としてこれを認容すべきも、その余(金六十七万五千六百円の支払を求める部分)は失当としてこれを棄却すべきものと判断する。ただし右引用にかかる原判決理由中、記録第六三五丁表十一行目に「七月千五十四円四十銭」とあるのは「七月千五十四円五十銭」の誤記と認められるから、右の如く訂正する。(甲第四号証の二参照)。

附加する点は左記のとおりである。

一、堀内医師が輸血直前給血者田中実に対し自ら(イ)血液検査及び(ロ)視診、触診、聴診をすることを怠つたのは、同医師の過失であるとの前掲事実摘示被控訴人の主張(二)(イ)及び(ロ)について。

凡そ過失に因る不法行為について加害者に責任ありとするには、注意義務の違背、その違背がなかつたならば結果を予見することが可能であつたこと、及び注意義務違背を原因として事故が発生したという、因果関係の存在を必要とするものである。輸血に際し医師が輸血に因る疾病の罹染を防止するため、如何なる注意義務を負うやの問題は、もとよりそのときの条件如何によつて一概に論定できないが、要するに原判決はその引用の証拠により、給血者田中実が始めて梅毒に罹染したのは昭和二十三年二月十四、五日頃であると認定し(この認定を左右するに足る別段の反証はない)、この認定の下に本件輸血の行われた同年同月二十七日までには十二、三日の時日の経過あるのみであるから、通例梅毒感染後(イ)血清反応が陽性を呈するまで要すべき期間の点及び(ロ)初期硬結、淋巴腺腫張等の外的症状が発現するまでの期間の点に関する、その引用の鑑定の結果等を綜合斟酌した上、たとえ堀内医師が右二十七日に血清反応検査及び視診、触診、聴診を行つていたとしても、これによつて給血者田中実が梅毒に罹つていたことを知り得なかつた筈であるとし、同医師が右血液検査及び視診、触診、聴診を行わなかつたことが、医師としての注意義務懈怠なりや否やにかかわりなく、換言すれば注意義務違背なりや否やを論ずるまでもなく、即ち注意義務を尽したとしても結局結果の発生を予見することが不可能であつたとしこれを原因とする賠償責任を否定したものであること、判文に照らし明らかなところである(原判決理由(一)及び(二)記録第六二八丁裏末行より第六三〇丁裏八行目まで参照)。従つて被控訴人の指摘する、田中実の血液検査証明書の日附が輸血日から十五日前であるとか、本件輸血が緊急の必要に迫られていなかつたとかいうような事情は、輸血に際し、検血ないし視診、触診、聴診に関する医師の注意義務加重の一事由となり得るであろうが、このことはたとえこの注意義務を尽したとしても、結局田中実の梅毒罹染の事実を知り得なかつたとする前示判断の結論に何等の消長を及ぼすものでない。尤もこの点に関し被控訴人は(イ)当審鑑定人加藤勝治の鑑定の結果中「梅毒罹染後血清反応が陽性を呈するまで個人差はあるが、一般に二週間ないし三週間を要する」(記録第七四九丁表参照)とあるのを援用して、若し二月二十七日に血液検査を行つておれば、同月十四、五日頃感染したという田中実の梅毒罹患の事実を知り得た可能性は相当あつたと主張するけれども、右鑑定に二週間というのは抗体発生の最適の条件の下における最少限度の期間を説明したに止まり、これを以て直ちに感染後十二、三日を経過したに過ぎない本件の場合にあてはめて陽性の反応を示す可能性が相当あつたものと推認するのは早計であるのみならず、原判決引用にかかる原審鑑定人北川昊、同中川清、同横山[石吉]の鑑定の結果を斟酌すれば、かかる結論を採ることは躊躇せざるを得ない。また(ロ)梅毒感染後その外的症状の発現するに至るまでの期間についても、被控訴人は原判決引用の鑑定の結果中にあげられている極めて例外的な特殊例を以て、原判決の説示を批難するが、原判決認定の状況の下においては、現在通常行われている視診、触診、聴診の方法によつては、他に特別な反証のない限り、本件輸血時に前示田中の梅毒罹患の事実を発見し得る可能性は、なかつたものと認定するのが相当である。

二、問診に関する前掲事実摘示控訴人の主張の(一)(1) (2) (3) 及び(二)、(三)について。

本件の場合堀内医師が前示二月二十七日の輸血に当り、給血者田中実に対し単に「身体は丈夫か」と発問しただけで、それ以上必要な問診をしなかつたことが、通常医師としてなすべき注意義務を欠いたものかどうかの点につき、原判決がその理由中記録第六三〇丁裏九行目から第六三四丁表十一行目まで詳細に説示しているところは、正当として当裁判所もこれを支持するものである。

原判決も説示する如く、梅毒感染後その血清反応が陽性を示すようになるまで、及び外顕的症状が発現するに至るまでには、それぞれ相当期間を要すべきものであり、且つ陰性期間中の梅毒感染者の血液を輸血することによつて、梅毒罹患の結果を生じ得るものである以上、たとい給血者が信頼するに足る陰性の血清反応証明書(殊に本件においては輸血の十数日前の日附の証明書であるから、その間における感染の機会もなしとしない。現に本件にあつては右感染は右証明書発行と輸血の日の間である二月十四、五日であつた)を持参し、健康診断及び血液検査を経たことを証する給血斡旋所の会員証を所持する場合であつても、これらによつて直ちに輸血による梅毒伝染の危険なしと速断するを得ない筋合である。そして前記の如く、陰性または潜伏期間中における梅毒罹染の確定的な診断を下すに足る利用可能な科学的方法がないとすれば、その正確性の点から言えば、血清反応検査、視診、触診、聴診に対し従属的ではあるが、先天的梅毒その他の例外を除き、梅毒感染の危険の有無について最もよく了知している給血者自身に対し、医師として梅毒感染の危険の有無を推知するに足る事項を発問し、その危険の有無を確かめ、事情の許す限り(本件の場合輸血が一刻を争う緊急の場合でないこと原判決認定のとおり)かかる危険のないと認められる給血者から採血すべき注意義務あるものと考える。

従つて前掲(一)の(1) において控訴人の主張する如く苟くも信頼するに足る血液検査証と、給血斡旋所の発行する会員証を所持する限り、これを信用して全然問診を省略しても、医師としての注意義務を欠くものと謂えないとの論は採り得ない。

次に控訴人は前掲(一)の(2) 及び(3) において問診の価値を過少視し、本件の場合問診によつて職業的給血者田中の梅毒罹患の可能性を発見することは所期し得べくもなく、この点に関する原判決の説示は問診の価値を過大視し、著しく条理に反している推論の下に過失を認定した違法があると批難する。しかし右の点に関し原判決理由の記録第六三二丁裏七行目から第六三四丁表七行目までに説示している事実の認定並びに法律上の判断は正鵠を失わない。尤も原判決も説示する如く、問診の効果は問診を受ける者の個人差によつて異なるであろうけれども、職業的給血者なればとて全然問診の価値を否定する見解には左祖できない。なるほど職業的給血者は報酬を得ることを目的とする者であり梅毒罹染の機会の有無など羞恥を伴う発問に対しては、正直に真実を告白する者はないであろうとの見解もさることながら、一面職業的給血者と雖も、医師がかかる危険の有無の判断資料となるべき事項について具体的に詳細な問診をなせば、一々答える必要があり、質問に対する反応を見る機会も多く、その心理的影響によつて真実を述べる場合のあることも相当予想せられるのであるから、抽象的にこの問題を論定することはできず、むしろ原判決認定の事情の下においては結局、「堀内医師が相当の問診をなして居れば、田中の血液に梅毒による汚染の危険あることを知り得べかりしことが推測され、問診によつても右の危険の存在を知り得なかつたことが明白であるとは言い得ないもの」とした原判決の判断は相当である。控訴人は乙第十二号証の田中実の検事に対する供述調書中「女を買つた事実を告げなければならないと思いますが、聞かれないことを幸に左様なことを告げなかつた」旨の記載はあるが、右は聞かれなかつたことを幸とする遁辞であるとし、たとい聞かれても真実の応答を得ることは到底期待できないと見るのが常識であるというけれども、結局は右供述の証拠価値判断の相違に帰し、少くとも控訴人主張の如く解すべき実験則は存しない。

また(二)輸血につき一応の知識を持つと見られる職業的給血者に対しては、単に「身体は丈夫か」と質ねれば問診として十分適切であるとの論も、前に説示した如く病毒感染の危険の有無を確めるための問診は、具体的詳細な発問をすることによつての効果を期待し得べく(当審鑑定人加藤勝治の鑑定の結果参照)、職業的給血者なればとてこれを簡にしても効果を期待し得る筋合のものではないし、殊に原審証人田中実、同本間亘の各証言により認め得る当時の職業的給血者の教養、生活環境等からしても、無条件にこれに信頼を措くことは甚だ危険であつたというべく、職業的給血者は一般に輸血に関する一応の知識を有する筈であるとの理由の下に、医師として問診を忽せにしてよいという根拠にはならない。

更に(三)本件における輸血は控訴人主張の如く或程度の要急性を持つていたにもせよ、周到な問診を行ういとまもない程緊急の必要に迫られていたものでないことは、原判決認定のとおりであるから、問診について前説示のような注意義務を要求されるからといつて、これがため輸血の実施を断念せざるを得ない結果となり、ひいて必要な治療を妨げられるということにはならないと思う。

要するに医師として必要な問診を行つていたに拘らず、被問診者の不信その他医師の責に帰すべからざる事情に因り、結果を予見することができなかつたというのであれば格別、相当の問診をしていたならば結果の発生を予見し得べき可能性があつたと認定し得る本件にあつては、医師として過失の責任を免れないと謂うべきである。尤も輸血という治療方法も、目前の実際的な要求に応じなければならない一つの技術であつて、時と場合により或る程度の危険の下に実施されることは已むを得ないところではあろうけれども、矢張り各場合における事情に則し、可能な範囲において危険の発生を防止するため、適当な注意を払うべきであつて、一般的に輸血による病毒罹染の安全率を以て、医師の過失を否定する根拠とすることは、当らないと謂うべきである。

問診の点に関し以上の見解に反する当審鑑定人西尾昌雄の鑑定の結果は、当審鑑定人加藤勝治の鑑定の結果と対比して採用し難く、右加藤鑑定人の鑑定の結果は、一部前示当裁判所の見解を支持するに足るものがある。

三、被控訴人の附帯控訴にかかる金六十七万五千六百円の支払を求める部分について。

被控訴人は本訴第一次の請求中、(一)原判決が治療費等の支出による損害の賠償として認容した金二万五千六百二十四円の外、なお金一万五千六百円の賠償を求めるけれども被控訴人の提出援用のすべての証拠によつても、原判決の認容した数額を超えては、かかる損害を認め得べき証跡はないから、右請求は理由なく、また(二)慰藉料の数額についても原判決の認定を相当と解するから、右額の外なお金六十六万円の支払を求める部分は失当として棄却すべきである。

第二、被控訴人の第一次の請求中、当審において拡張した(一)金六十七万五千六百円に対する昭和二十三年二月二十七日以降完済まで年五分の率による遅延損害金、並びに(二)金四十二万二千二百五十八円六十六銭に対する同一期間同一割合による遅延損害金の支払を求める請求についての判断。

右(一)の請求については、前掲第一の三において判断したとおり、右基本たる治療費の支出による損害及び慰藉料計六十七万五千六百円そのものの請求が、すでに失当である以上、これに対する遅延損害金の請求の謂われないことも多言を要しない。(二)の請求については、その基本たる金四十二万二千二百五十八円六十六銭につき控訴人において本件不法行為に因る損害の賠償として、その支払の責あること、前示認定のとおりであるから、右に対する遅延損害金の請求としては、右金額に対する履行の請求があつたと認むべき本件訴状送達の日の翌日たること記録上明らかな昭和二十三年十二月九日以降右完済まで民法所定の年五分の率による金員の支払を求める部分に限り正当としてこれを認容すべきも、その余は失当としてこれを棄却すべきものである。

よつて被控訴人の本訴第一次の請求が、その原因において理由のない場合を前提とする第二次の請求についての判断を省略し、本件控訴並びに附帯控訴はいずれも理由がないから、民事訴訟法第三百八十四条に則り各これを棄却すべきであるが、被控訴人が第一次の請求として当審で請求を拡張した部分については、前説示の如く、金四十二万二千二百五十八円六十六銭に対する昭和二十三年十二月九日以降右完済まで年五分の率による金員の支払を求める部分に限り正当としてこれを認容すべきも、その余は全部失当としてこれを棄却すべきものである。従つて当審における右請求の拡張の結果ここに言渡すべき判決は原判決主文と一部符合しないことになるから、原判決主文第一、二項を本判決主文第三、四項の如く変更すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十五条、第八十九条を適用し、同法第百九十六条による仮執行の宣言はこれをなさざるを相当と認め、主文のとおり判決する。

(裁判官 斎藤直一 菅野次郎 坂本謁夫)

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